演劇入門 生きることは演じること
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サマリー
演劇という体系の汎用性というか応用余地を思い知ったsta.icon
現実も多かれ少なかれ俳優と観客の構図に帰着できる
で、まさに演劇を生業としている人達がいる
そいつらの経験や知識や理論が役に立つ
なんのことはない、私達の人生は演劇そのものだということです。
やっぱりリアルタイムと同じ空間が重要なんやなぁということを再認識
演劇の歴史が証明している
それが人間なのだということ
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演技の定義
創作みたいに体系化されていて面白いsta.icon
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俳優一人と観客一人
観客と俳優のあいだで起こるもの
演技空間を横切る者が「虚構である」と分かっていて、観客もそれを分かっていながら受け入れる
意識の共通性と呼んでいるsta.icon
無作為にはがきで「当日ここに集まれ」を送って集める、んで当日の様子を上映する
上映しなければ演劇ではない(ただのアイデア)
なるほどな、人生の本質を捉えるために演劇という枠組みを当てはめることができるんだsta.icon
人間は演じる存在
どれもが「本当の自分」であり、どんな人にも通じる「唯一の自分」があると考える方が不自然でしょう。
が、配分ではなさそうなのでちょっと違うわねsta.icon
演劇は観客も大切
観客がいるからこそもたらされるものがある
観客がいることがある種の前提と魅力になっているところがある
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演劇のインパクト
同じ空間にいるし、リアルタイムだから、色んなことが共有・体験される
映像では小細工ができるが、演劇ではできない
映像ではたとえば主演が下手な場合はリアクションショット(周辺人物のリアクションにフォーカスして目立たせる)とかして主演から外す、とかもできる
演劇ではできない
ずっと見えてるもんねsta.icon
同じ空間にいる限り、嘘はつけないのです。
奇跡は起こらない
「俳優は緊張していれうが、観客には説得力があるように伝わる」なんて奇跡は起こりません。
自然に伝えられるレベルまで練習できるかどうかゲーなのかもなsta.icon
俳優は観客に左右される
人間なので
400人の会場で、観客が1人だけだとしたら、俳優の心身にも影響は出る
その一人の観客がまず緊張する
その緊張が俳優にも通じる
「俳優と観客の関係はインタラクティブ」言うてるねsta.icon
間
お笑いにも「間」というものがある
演劇もライブなのである
もちろん普遍的な正解はなく、その演劇その空間における解を探す必要がある
その場の空気を感じないで、ただ、覚えた言葉を機械的に繰り返した結果、失敗するのです。
厳しすぎるsta.iconsta.icon
0.x秒のタイミングであることもある
小道具や照明などもこの範疇に含まれる
空気読んだタイミングで行う必要がある
新人は下手くそなのでよく怒られる
観客と観客が出会う
同じ空間で熱量を共有する
逆に「みんな盛り上がってるのに俺だけ白けてる」的な疎外感もある
演劇の世界
稽古は1-2month、1日6-8H、週一で休む
身を任せる
芝居が始まったら、俳優とスタッフを信じて、身を任すしかないのです。いちいち心配していたら、間違いなく胃に穴があきます。
劇場は数十人から数百人規模で良い
収容人数でかすぎると、人集まらなかったときにスカスカになるから
そして観客同士の盛り上がりが伝搬しにくい
1000席のホールなんて、東京でも埋めるのは難しい……身近な数十人から数百人が楽しく使える劇場を設定すべきなのです。
演劇は人生以下、フィクション以上
人生 > 演劇 > フィクション
人生に近い側の世界
演劇は、情報量において膨大で、意味において曖昧なのです。そして、この演劇の特性は、「人生そのもの」と似ています。
演劇は主体的に参加するもの
人は主体的に参加してあーではないか、こーではないかと想像するからこそ感情移入する
演劇はそれが前提となっている(からテレビみたいに字幕やら解説やらはつけない)
曖昧だから感情移入しやすい、とも言っているsta.icon
充分な説明がないからこそ、観客は想像力をより使って物語に参加するのです。
写真
絵画は(肖像画が主流だった)死んだと思われたが、正確な描写は写真に任せて、絵画は様々な表現へと羽ばたいていった
映像
演劇の「より正確に」の役割は終わった。それは映像に任せて、演劇は「より創造的に」な役割になった
カタルシスを味わうための演劇
演技は台詞の決まったアドリブ